斉藤壮馬を知りたくなかった

 

アセンションしたから大丈夫とか言ってこわがらせちゃうね (斉藤壮馬3rdシングル『デート』より)

 

ポップでキャッチーないわゆる「売れる曲」を意識して作ったという曲にこんな歌詞を書こうと思う人が斉藤壮馬以外にいるだろうか。少なくとも彼以外にこんな人をわたしは知らない。仮にいるとしても知りたくない。というか頼むからいないでほしい。こんな感性を持った人、彼ひとりで充分である。

 

わたしは、斉藤壮馬を知りたくなかった。

 

 


彼のことを知るきっかけになったのは、一年前に旧知の友人と久しぶりに話した際、「ひょんなことから声優さんに落ちた」という旨の話をしたところ、「絶対に壮馬のこと好きだと思う」と言われたことである。声優さんにハマって数ヶ月のまだまだ知識の乏しいわたしですら、バレーやラップなどの有名な作品に出演しているということで彼の名前は存じ上げていたし、ちょうどその頃推しのYouTubeチャンネルにゲストとして登場していたので、その声は大いに耳馴染みがあった。ただ、友人が彼を勧めてくれた理由は「声が好きそう」だからではなく、曰く「世界観が好きそう」だから、だった。


これは余談だが、声優さんに落ちたと言えば第一に「斉藤壮馬?!」と名を挙げられるのは彼で、推しの名前を口にすると「なんであの完全光属性の花江くんを……?なんで斉藤壮馬じゃないの……?」と言われたことが少なくとも三度はある。

世界観推しでわたしに彼を勧めてくれた友人へ。あなたの見立ては何ひとつ間違っていませんでしたね。わたしより。

 

 


彼の作品に初めてお金を払ったときのことを、一年経った今でも鮮明に覚えている。

CDでもアニメ作品でも出演作関連グッズでもなく、『健康で文化的な最低限度の生活』を池袋のアニメイトで購入した。先の友人に勧められるまま、買った。声優さんのエッセイを買うことになるなんて思わなかったけれど「きっと世界観が好きだから読んだ方がいい」ととにかく激推しされたので、そこまで言うなら、というかむしろ読みたいと二つ返事でレジに向かったものだ。

 

読んでみた結果。いいなんてもんじゃなかった。

 

好きだなとももちろん思ったが、それより何より一番大きな感情は「わかる」だった。この人が言ってること、すごくわかる。読了ツイートにもあるように、初見時から「ヒラエス、ヒラエス」「in the meantime」に書いてあることがとにかくわたしで、絶句するほかなかった。また、ひらがなを用いるバランスが憎い。好きで、好きすぎて、憎らしい。この感覚をどう言語化したらいいものかわからない。わからないけど「わかる」から困っている。

 


考え方や思考の点と点の結び方は似せようと思って似せられるものじゃない。その人が生きて、紡いできた時間の積み重ねが思考となって現れるし性格たりえるのだと思う。だから驚いたしおもしろかった。ふーん、おもしれー女。みたいなのを他人に対して地で思う経験ってなかなかないから、おもしろくもこわくもあった。

 

このおもしろこわい経験をもっと積み重ねたい、彼のことをもっと知りたいと思ったわたしが次にしたことは、ブログを読み漁ることだった。わたしはまれに文章に惚れ込んで人を好きになることがある。10年単位で追いかけていたアイドルの、生きる指針にしていたアーティストの、らしさあふれる言葉で埋め尽くされたブログという海を泳いでいるうちにさらに虜になり、骨抜きにされたあの生々しい感触をまた味わいたくて、「斉藤壮馬 ブログ」と検索しネットの海をさまよった。そうして深く潜った末に、考え方以外にも「わかる」ことがあまりにも多く(一人称をひらがなで記すだとか、三点リーダーはふたつ続けるのが流儀(わたしはiPhoneのユーザー辞書に「てん」と打つと「……」と変換されるように登録している)だとかはとるに足らない、でもすべての人が「わかる」わけじゃない、ほんの些細なことである)、わたしはとんでもないところに足を踏み入れたな、と悟った。

 

 


「わかる」が許容範囲を超えたのが「TVガイド VOICE stars vol.6『斉藤壮馬に触れてみたい 1万字超えインタビュー』(以下1万字インタビュー)」だ。『デート』のリリースに合わせて特集されていたようで、楽曲制作の話や学生時代のエピソード、声優を目指すに至るまでの経緯など、彼の人間性に迫る興味深い話が掲載されていた。もちろんわからないことだってある。むしろわからないことの方が多い。当然だ。会ったことも話したこともない、全く別の世界線で生きてきた他人なのだから。わたしは高校時代に引きこもったこともなければ一生懸命勉強してもいない、大学時代に友人と"歩くやつ"をした経験もない。

 

ただ、「怒りという感情に突き動かされていた」一辺の話はわたしが辿ってきた道と一歩違わず同じだった。その上、いつ頃までそれを抱いていたのかとか、解き放たれた瞬間から楽になったとか、ほかのだれにも話したことはなかったのに、わたしが感じてきたことが彼の口から語られていて、ああ、これはなんなんだろう?わかるひとってこの世にいるんだ。こわ。と思った。わたしはここへきて初めて、斉藤壮馬という人間を知ってしまったことを後悔した。

わたしが言語化出来ないこと・しようとも思わなかったことをいとも容易く(わたしにはそう見える、それがまたすごいところ)言葉にし世に放ち多くの人の共感を得たり得なかったり、芯の強さは窺えるのに柔和でやわらかな雰囲気を感じさせたり出来る彼の存在は、わたしがいかに無力な人間なのかを思い知らされるようでひどく悔しく、つよく憧れた。

 

 

人間は好きな人ないし推しとの共通点を見つけて喜びたい生き物だ。積極的に探すのは共通点や類似点、理解出来る点で、相違点を数えるのは二の次三の次だと思う。わたしも例に違わない。ただ、彼と共通点を見つけたときはそういった喜びとは一線を画した感情を抱く。「壮馬くんが言ってることわかる~」と悦に浸りたいわけでも「マジ彼の言ってることわかりみ卍おれが一番の理解者卍」と粋がりたいわけでもない。でもごめん、本当にこの「わかる」をどう言語化したらいいのか、どうしたら伝わるのかわからない。これがただの自分語りであるということだけは確かなのだけど。

 

 

 


読んできた本の総数や有する知識の豊富さは比べるまでもなく、競うものではないながら敵うはずがないことを痛いほどに知っている。対抗する気など端からない。インタビューの端々に滲む博学多才な一面や引用される文学作品の多さに膝を打つこと山の如し。


確かに本は好きだけど色々な世界へと手を伸ばすことはせず、いや、出来ず、ただ好きな作家さんの本を何度も何度も繰り返し読むことに美学を感じていただけのわたしは、いつしか読書を好きだと言えなくなっていた。自分の引き出しの少なさがそうさせた。高校生の頃は嶽本野ばら一筋、大学に進学すると真梨幸子をはじめとしたいわゆるイヤミスにのめり込み、読後感の悪さを味わうことに愉しさを感じるようになった。あ、読書はするけど有名な作家さんとかはよくわからないです〜。村上春樹伊坂幸太郎も読んだことないですね、食指が動かなくて〜。とかなんとかのたまっていたと思う。嫌味なおんなである。


だからほんと、わかるわたしがすごいとかじゃない。わからないことが多いけれど「わかる」のターンがくると「わかる」こと以外わからなくなるということなのだ。わかんないよね。わたしもわかんないや。

 


幼い頃から自分のことを俯瞰で見ることが出来ていたと思う。人からどう思われているか、どう見られているかを一番に意識していた。「これを言うわたしはわたしじゃない」「A案よりB案を提案する方が"わたしっぽい"」という、ともすればそれは本当の自分の意思じゃないのではと我ながらに思ってしまうほどの徹底した自己誘導人生だった。楽しかったかどうかはわからない。幼少期を振り返ると「どういうことをすれば大人が満足するのか、ということを考えている、あまり子どもらしくない子どもだったと思います(1万字インタビューより)」に帰結する。ここでも引用したくなるほどには「わかる」し、だよね。と思う。

 

 

彼のことを知りたいという欲求と知りたくないかもという恐れはおもしろさとこわさの共存ゆえ。この両極端に伸びるベクトルが破綻したら、と考えるとやっぱりこわくて、どちらともを大切にしながらバランスを保つにはどうしたらよいのだろう?と拙い思考で策を練るけれど、彼の前ではその必要ももはやない。わたしの中のおもしろこわい絶妙な位置を、彼はゆらゆらと歩き続けている。

 

 

 

 

また別の話を挙げると「そうはなれなかったな」の先に彼がいる気がしている。


例えば中学生の頃に好きなアイドルに憧れて始めたアコースティックギターを数年で辞めてしまったわたし。例えば高校時代、当時好きだった人に一緒にバンドやろうと誘ってもらったのに断ってしまったわたし。子どものわたしがなぜ辞めてしまったの?諦めてしまったの?と責めてくるけれど、答えはわからない。バンドに関して言えばやりたかったはずなのに頷くことが出来なくて、卒業した後もしばらく引きずったりしていた。わたしは彼と違ってギターもバンドもちゃんと出来なかったな。音楽について楽しそうに話している彼を見ると、いいな、やりたかったな、と思う子どものわたしが今でもひょっこり顔を出す。そんなことすっかり忘れていたのに、忘れていた記憶まで簡単に引っ張り出されてしまったのが不思議でしかたないけれど、子どものわたしは思い出してくれてありがとうって思ってるよね、なんて、いいように考えてしまうからおそろしい。そんなファンタジーみたいな話、昔のわたしはきっと嫌いだったのに。

 

 


そうだ。昔のわたしはというと、ずっと、ずっと希死念慮とともに生きていた。生きていたくないというより、はやく死にたかった。なにかとてつもなくしんどい出来事があったとかトラウマ的な生い立ちがあるとかそんなことは一切なく、ただただはやく命を終えたい。そう思って生きていたわたしが惹かれる人は、影によって光が際立つような人が多かったように思う。弱いから強くて、消えそうに儚いのに確かに生きていて、寄り添うと確かな鼓動を感じるような。わたしもそういう人間になりたかった。生きていることを確かめるために死にたかったのかな。今はもう知るすべもない。

 

みんな、少なからず希死念慮を抱いて生きていると漠然と且つ当たり前のように思っていたから、大人になって出会った友人に「生きたいよ!死ぬの怖いよ!」と言われた時はひどく驚いたものだ。みんな死にたいわけじゃないの?なんで?どうして生きたいの?と質問責めにして、年下を本気で困惑させてしまったことをいまはひどく後悔している。あのときはこわい思いをさせて申し訳なかったな。


二十歳になった夜、悲しくて泣いたことを覚えている。漠然と二十歳になる前に交通事故とかで死にてえなーとか思っていたから、交通事故に遭わない不運な自分がかわいそうで泣いていた。なにが私をそうさせるのかは全くわからないのに、ただただ単純にはやく死にたくて焦っていたあの気持ちはなんだったのだろう。

 


年末には遺書を書いた。いつ死んでもいいように、大好きな家族や友人に感謝の気持ちをしたためた。「特別いやなことやつらいことがあったから死んだわけじゃありません。楽しい人生でした。ありがとう」のようなことを毎年変わらず書いていた。ツイッターSNSのログインパスワードを記し、わたしが死んだらこの送付先へ出してくださいと、すべてを託す思いで先のこわがらせてしまった年下の友人の住所を記し、ドレッサーの引き出しにしまっていた。ただ、それも一昨年までの話である。

 

 

 

Mr.ECHO

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流星ヘブン

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この2曲は、かつてのわたしのうただった。わたしの人生を歌ってくれているうただと信じて止まなかった。今でも大好きだけど、もうそんな風には思わない。

 

 

2019年夏、唐突にマインドが変わり年末には遺書を書く気は失せていた。去年の夏以降、昔からの知り合いに会うと驚かれることが本当に多い。雰囲気がやわらかくなった、性格が変わった、憑き物が落ちた、ていうか一回死んだ?みりんちゃんネオなの?なんて言われることもあった。何度も言うがきっかけや理由は自分でも全くわからないのだ。死にたがりのわたしはいつのまにかきえていた。

アセンションしたから大丈夫とか言ってこわがらせちゃうね。って普通に声に出して、本当にひとをこわがらせたことある?わたしはある。こわい。

 

 

 

ひとは何がきっかけでどう変わるかわからない。

推しの力だったり、こんなわたしのそばにいてくれる家族や友人や恋人のおかげだったり、無敵になれるかわいいの源のお洋服やアクセサリーのパワーだったり、そういうもので如何様にも強くなれることを、死にたかったわたしの存在と引き換えに証明出来たことが誇らしい。まさかわたしが「毎日楽しい!生きるのって幸せ!ありがとう推し!ハッピー!!!」みたいなことを言うようになるだなんて誰よりわたしが一番思ってなかった。ありえないと思ってたよ。生きるのって楽しいね。アセンションしてよかったなーーーー(大声)

 

 

 


わたしはそれが何かを知っている。
尊敬とか、憧憬とか、それだけじゃないことを。
嫉妬とか、畏怖とか、そういう類の感情を孕んだものということを。

 

ああ、斉藤壮馬を知りたくなかったな。
好きになってしまうのは目に見えていた。というより、好きにならない理由がなかったから。こんなにもこわくておもしろいひとに惹かれない理由を見つけられない。


でもそれよりも、斉藤壮馬に出会えてよかったな。自分の人生を改めて振り返ることが出来たし、胸のつっかえが取れたような気さえする。ありがとう壮馬くん。感謝しています。

 

これからもひっそりと応援させていただきたい所存。in bloomシリーズの3作目『パレット』はまだ聴いてないくせに3作品の中でも一番好きな予感がしていてわくわくが止まらない。斉藤壮馬のエモを浴びられる日を楽しみにしております。

 

おわり

デート

デート



 

 

 

推しではないということを差し引いても声優・斉藤壮馬さんのお仕事を追いきれておらず、語れることもないので文章・世界観に重きを置いて綴らせていただきました。もちろん彼の本業・アーティスト活動に精を込めていること、理解しています。知識足らずの一介のオタクがわかったように「わかる」を連呼してすみません。ここまで読んでくださった方がいたなら、一介のオタクのアセンションエピソード(?)にお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

 

斉藤壮馬を知りたくなかった!(まんじゅうこわい構文)